野生水域2 舟歌
2006年8月から2006年9月にかけて録音・制作された。 (mp3, 2'23, 2.7MB)
8分の9拍子の舟歌。
サンタ・マリアがジパングを目指して西へ向かったり、エイハブ船長がMobydickを追い掛け回していたり、アラン・ドロンが太陽がいっぱいの昼下がりに甲板の上でまどろんだり、海には波に揉まれた神話が息づいている。
<歌詞>
一点の汚れのない海を見に行こうよ
一点の曇りのない空を見に行こうよ 一点の翳りのない空を見に行こうよ
エンヤトット 漕げ漕げ漕げ舟を
一点の汚れのない海を見に行こうよ 一点の澱みのない海を見に行こうよ
一点の汚れのない海を見に行こうよ
<使用道具>
ダルブカ / デフ / ガイダ /マンドリン / ウト / カラデニズ・ケメンチェ
明滅
2005年3月から2006年10月にかけて録音・制作された。 (mp3, 6'36, 7.5MB)
1980年代後半、友人であるトムヤムクン・カラヒ(先生)とともに「熱狂的不眠」というタイトルのインスト曲として制作されたものが元になっている。
If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life, it stays with you, for Paris is a moveable feast
Ernest Hemingway "A Moveable Feast"
もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過そうとも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。
『移動祝祭日』E.ヘミングウェイ 福田陸太郎訳 岩波書店 同時代ライブラリー
ヘミングウェイは自分が青年時代の一時期を過ごしたパリについて、そんな風に書き記した。移動式音楽班も、自らが20代を過ごした街のエーテルをサウンドとして描写してみようと、音のコラージュによってその雰囲気を出そうと試みたものである。
夜空に瞬く色とりどりの光、そんなバラバラな光が何かの加減で一点に集中する。その心象を描き出すプリズムは、その街と、その時代を生きた、自分自身に他ならないのだろう。
<歌詞>
夜空 青い光 赤い光
テレビ ラジオ ノイズ火花散らし
煙草点火 夜を焦がす炎
煙上がり夜の幕が下りる
その街にブライトな青春と
その街にダークな青春が刻まれていたなら
他の街はその街の代わりにはなれない
眠れずに過ごした長い夜
愚かでマヌケでデカダンスの証し
眠れずに過ごした幾つもの夜
愚かでマヌケでデカダンスの香り
その街にブライトな青春と
その街にダークな青春が刻まれていたなら
他の街はその街の代わりにはなれない
<使用道具>
サヌカイト / 木琴 / 中国製銅鑼 / チン / ジル /ギター(フォーク,クラシック弓奏,クラシック・マレット打奏,エレキ)/
FMラジオ
野生水域
2005年8月から2006年9月にかけ録音・制作された。 (mp3, 2'40, 3.1MB)
遠い夏のある日、エーゲ海の保養地で、泳いだり、スイカを喰ったり、ガーイダ(バグパイプ)を吹いたりして過ごした。
そのときふっと湧き出した旋律を、ウイスキーやワインが熟成していくように、否、もしかすると瑞々しかった果実が腐敗してでろんでろんになっていくように、か、長い時間をかけて曲にした。
海は巨大すぎてそこに棲む生物もすべて知り尽くされているわけではないだろう。秘密に溢れている。なによりも、そのとき眼前にひろがっていたエーゲ海というやつの表現の仕様もないほどの碧さに、条理や理性では語れぬ超自然的な何者かの仕業を感じてしまった。とろん、とした水面の質感には官能を。
見たこともない世界への憧憬。それも俺を突き動かしている。
<歌詞>
君は海の歴史を知っていますか
水の中の歴史を知っていますか
波乱の海賊船が跋扈する海域
海中を飛行する君は鳥だ
ジン浸りの水夫よ 鴎よ 自由よ
波は記憶をどこまでも運んで行く
一点の曇りのない空を見に行こうよ
一点の翳りのない空を見に行こうよ
一点の汚れのない海を見に行こうよ
一点の澱みのない海を見に行こうよ
古代の沈没船から溢れ出した
バッカスの葡萄酒で君の頬が染まる
君は海の歴史を知っていますか
水の中の歴史を知っていますか
一点の翳りのない空を見に行こうよ
一点の汚れのない海を見に行こうよ
一点の澱みのない海を見に行こうよ
君は海の歴史を知っていますか
水の中の歴史を知っていますか
<使用道具>
貝殻 / ダルブカ / デフ / ガイダ /マンドリン / ウト / カラデニズ・ケメンチェ
ディオニソス歌
正式タイトル:ディオニソス歌(「寄港地にて」及び「ディオニソス、俺は知りたい」より)
2006年8月に制作された。 (mp3, 1'46, 2.0MB)
この曲は2006年5月6日「ディオニソス、俺は知りたい」として公開されたものと、同年5月16日「寄港地にて」として公開された2曲から成り立っている。
曲の旋律は「寄港地」と同じだが、「ディオニソス」からは歌詞を、「寄港地」からはバグパイプとコーラス(ぷれっぷれっぷれ)の録音を転用した。それ以外のパートは、このトラックのために新規録音しています。
世界観としてはコーラスを繰り返しているその通りの内容であり、制作の動機としては音遊び的な要素が濃い。歌詞は現代ギリシャ語の入門書とにらめっこしながら書かれたものですが、発音も含めて、正しいものなのかはわかりません。
<歌詞>
EGHO DHEN XERO, ESIS XERETE, DIONYSOS, THELO NA XERO.
(俺 俺は知らない、あなた あなたは知っている、ディオニソス、俺は知りたい)
<使用道具>
ダルブカ / ガイダ / マンドリン / クラッシック・ギター森の中
プロジェクト・ポチの面々へ贈る。音楽を作らせてくれて感謝します。
2005年5月から2006年8月にかけ録音・制作された。 (mp3, 5'07, 5.8MB)
「寒い国の老人の額に深く刻まれた皺に捧げる」(2006年5月6日)「蝶を追って 森の中へ」(同5月24日)とともに、1990年代前半に友人の芝居の随伴音楽として制作された曲が元となっている。
彷徨いの曲。
恋に彷徨い、自由に彷徨い、自分に彷徨う。
ただし、彷徨う自分に自分の彷徨っている姿は見えぬだろう。馬鹿で一途な行為をひたすら繰り返すものには。そして、この森に生涯住み着くことを覚悟するのか、それとも、探すのをやめ彷徨うことをやめ、森の中にいることを忘れてしまうのか、どちらかしかないような気がします。
<歌詞>
深い森の中
探してる
木々の陰に潜んでいるものが俺を魅きつける
俺は君の影や幻ばかり
見つめているのだろうか
もし君がそんなに誰かを望まなければ
もし俺がこんなに君を求めなければ
深い森の中
君はまだそこにいるのか
木々の饒舌な沈黙に俺は屈服する
行き場のない森の中でも
君は俺から自由に飛べる
夢よ蝶のように羽を広げろ
夢よ犬のように俺を手なづけろ
深い森の中
探している
<使用道具>
葉っぱ / ムビラ / ドーラック / ボンゴ /リコーダー / 鍵盤ハーモニカ / クラシック・ギター / ウト
ヌーの歌
浅間追分 assamā’ / finale
2005年12月から2006年6月にかけて録音・制作された。 (mp3, 5'16, 6.0MB)
「浅間追分 assamā’」
詞 長野県東部民謡(小諸馬子唄ほか)/ 移動式音楽班
曲 長野県東部民謡(信濃追分)/ 移動式音楽班
「finale」
曲 アントニオ・ホセ・サントス・アミーゴ
編曲 アントニオ / ウンベルト8世 / トムヤムクン・カラヒ(先生) / イリイニチナ・ハラショーヴィッチ
浅間追分 assamā’では詞・曲とも長野県東部に伝わる民謡「信濃追分」を部分的にカバーしている。
Finaleにおけるクレジットはすべて移動式音楽班のアミーゴ、アミーガである。
長野県東部と群馬県との境にそびゆる浅間山(活火山)であるが、「あさま」の語源としてはアイヌ語説、ポリネシア系言語説など諸説あるようだ。しかし、そこに割って入る新学説がここに登場した。
「あさま」の語源はアラビア語で「空」を意味する samā’ (サマー)に定冠詞 al がついた形 assamā’(アッサマー)から来ているのだ。日本語はアラビア語だったのだ。
というトンデモ学説ダレニモイウナヨをテーマにしています。
<歌詞>
浅間山 ほい ちょいと あいやさっさ
あたしゃ 山ではないけれども
ほい ちょいと
だもんで(~ということで) えー、だれ(ちょっと、そうではないでしょう) ほー(ほら)
あいやさっさ
胸に煙が絶えやせぬ
胸に煙が絶えやせぬ
あさま
東信濃の夜明け空
西風受けて顔上げりゃ
北も南も山ばかり(四方八方山ばかり)
聞いておくれよ山彦さんよ(聞いてあげよう恋狂い)はっ
浅間山ではわしゃないけれど
胸に煙が絶えやせぬ
その人の名を口にする(そっとその名を口にして)
空 空 空 空に吠える
assamā’
あさま
assamā’
あさま
assamā’
<使用道具>
こきりこ / びんざさら / ため棒 / ドーラック / デフ / 鍵盤ハーモニカ /クラシック・ギター / フラット・マンドリン / ウト
gong / guitar / noise composition
2005年2月から2006年6月にかけて録音・制作された。 (mp3, 2'44, 3.1MB)
2005年2月、中国製の銅鑼(アントニオ・ホセ・サントス・アミーゴ氏所蔵品)をどろどろ〜っと叩く。そのまま放置。
2006年6月、クラシック・ギターを適当に、きわめて適当に爪弾く。それにいくつかの音を加え編集する。
どこか収まりの悪いBGM制作の一環として、美学的に取り合わせの悪そうな音の組合せを試してみる。
<使用道具>
銅鑼 / クラシック・ギターその祈りは解読されてはならない なぜならそれは犠牲だから
2005年5月から11月にかけて録音・制作された。 (mp3, 4'53, 5.6MB)
英国の無言劇で歌われる曲で、歌詞の意味が聴衆に知れると幸運が逃げてしまうと考えられている曲があるという。
イースター島の古語(Rongorongo)は失われた言語であり、現イースター島民は、島に伝わる古謡を歌えど、その意味をわかるものはいない。
ダム湖に沈んだ集落が、渇水の年に湖底に露出することがある。
これらのエピソードに触れたとき、それは祈りであり、犠牲でもあると感じられた。失われ、取り戻すことの出来ないものが暗示する受難。
そんなふうに、クエスチョンマークの背後にある祈りと犠牲を、素朴な、フォーク・ソング風の曲にのせて歌ってみようと思ったのです。
<歌詞>
(イースター島古語 Rongorongo語によるイントロに続き)
風に吹かれ 丘の上 目を閉じた
そこは昔 故郷の町だった 二度とは戻れない
君は僕の大切な人だった
まるで君が今もそこにいるようだ 緑の木の下で
眠るあなたはまるで珊瑚になる
深い海の底で光を放つ
風に吹かれ 記憶の歌を口ずさんだ
その言葉をわかる者はもういない 二度とは戻れない
君となら僕はどこまでも行ける
祭りの夜 冒険に出発さ
全力で 全速力で
眠るあなたはまるで銀河になる
暗い夜の空に虹をかける
消え去った町の上で会おう
忘れられた言葉で歌をうたおう
<使用道具>
サヌカイト / チン / ギター・ケース / 手拍子 / 瓶 / ドーラック /リコーダー / 送油チューブ / 鍵盤ハーモニカ /
ギター(エレキ・ギター / クラシック・ギター )
寒い国 EDITION#1
蝶を追って 森の中へ
2005年3月から2006年5月にかけて録音された。 (mp3, 4'06, 4.9MB)
「寒い国の老人の額に深く刻まれた皺に捧げる」と同様に、1990年代前半に友人の芝居の随伴音楽として制作されたものが元となっている。
森の奥へ、ひらひらと舞うてふてふに導かれ、木の葉や枝を払いのけ、倒木を踏み越え進む。
もう、出口のわからない、後にも先にも進めない地点に至る。
<挿入曲>
In amorem vise cedo:
fecit Venus hoc, ut credo.
≪Ades!≫ inquam, ≪non sum predo,
nichil tollo, nichil ledo.
Me meaque tibi dedo,
pulchrior quam Flora!≫
Estivali sub fervore C. B. No. 79より
私はその人を見て、恋におちいった。
それはヴィナスがなせるもの。
私はいった「お待ち、私は盗人ではない
何もとりはしない。心配しないでおくれ、
私を、私のすべてをおまえにおくる。
フローラよりももっとうつくしいお前に!」
(高野紀子訳)
<使用道具>
マラカス/デフ/ドーラックリコーダー/ティン・ホイッスル/サズ
寄港地にて
Nesliyanへ贈る。記憶の底に決してうずもれる事のない思い出とともに。
2005年5月から10月にかけて録音・制作された。 (mp3, 2'14, 2.6MB)
一つ、ジャカスカしていて、二つ、野蛮で、三つ、音の塊のようなサウンドは移動式音楽班が追究して止まぬものなのであります。専ら生楽器によって。この曲はそんな三要素の実現を目指したものだ。ジャカスカで、野蛮で、音の塊になっているだろうか。
曲は「旅」の真っ只中にいる人間を容赦なく襲う、無遠慮で、混沌として、問答無用な事象・風物との対峙を歌っている。自分を縛っている諸々から逃れようとしても、そいつらは容赦なく追いかけてくるのだ。「旅」には終わりがあるし、終わりに向かって突っ走っているといえるかもしれぬ。そうした「ジタバタ」とでも表現したくなる風情を、声も駆使して表現を試みた。
中盤でヤケクソ気味に歌われる「ぷれっぷれっぷれっ」なる旋律は、1992年にトルコ共和国に滞在していた際、お世話になったある家の娘さん(8歳くらいだったか)が歌っていたものを編曲している。大衆的な歌謡曲なのか、民謡なのか、童謡なのか、はたまた彼女の創作なのか、とにかく、ちょっとハスキーな声で舌足らずにうたう感じがとても印象的だった。この箇所を彼女に捧げる旨の献辞を怠ることはできません。ま、こんな曲、捧げられてもひっくり返っちゃうかもしれないけどさ。
<歌詞>
モツカノトコロミナトニクギヅケ
この酔いどれた航路の途中
目下のところ港に釘付け
太陽の下、甲板の上、右往左往
気分はまるで家畜のようさ
早口言葉のありったけ、家鴨、煙草屋、ソーダ売り
朝だというのに夜の顔、花売り、馬喰、動物使いにまじない師 はっ
汗が俺をうんざりさせる
嘘がエンジンのビートに変わり、裏切りがスクリューのメロディーに変わる
ぷれっ ぷれっ
季節は移り変わって行く
つまり死に、そして再生する
真っ赤に燃えた太陽だけど
やがて沈む、だけど昇る、やはり沈む
モツカノトコロミナトニクギヅケダ
この酔いどれた航路の途中
目下のところ港に釘付け
エンジンのビート、スクリューのメロディー、右往左往
<使用道具>
洗濯板 / ジル / ダウル /ガイダ / マンドリン / クラシック・ギター / ウト
ディオニソス、俺は知りたい
2005年5月から10月にかけて録音・制作された。 (mp3, 1'39, 1.9MB)
生楽器を主体にした音のコラージュというスタイルを一貫して追究しています。
この曲は長年の研究の結果、編み出された移動式音楽班の基本形ともいえる編成によって演奏されています。ま、詳しいことを教える訳にはいかないけれど(使用楽器を見れば大抵のことは察しがつくだろうが)。
曲は、人間のダークな部分を見たいぜ、とかなんとか言って、何かから逃げ出そうとしているシチュエーションを描いている。そうした行為はある場合「旅」という言葉に置き換えることもできるだろう。すべての旅が前向きな訳じゃあないでしょう。そしてそれを間違っていると断罪することもできるまい。
ディオニソスは古代ギリシャの酒と音楽、つまり酩酊と快楽の神です。俺もその奥義を見てみたいな、と、常々思う。
<歌詞>
太陽に向かって船は無目的に行く
暗闇に向かって船は無目的に行く
情熱と熱狂を待ち焦がれる俺がいて
偽りと裏切りに漕ぎだして行く船に乗る
太陽に向かって船は波を滑る
暗闇に向かって船は波を滑る
情熱と熱狂で上の空の俺がいて
偽りと裏切りに溺れていく俺がいる
EGHO DHEN XERO, ESIS XERETE, DIONYSOS, THELO NA XERO.
(俺 俺は知らない、あなた あなたは知っている、ディオニソス、俺は知りたい)
情熱と熱狂で嘘を重ねる俺がいて
偽りと裏切りにもがいている俺がいる
太陽に向かって船は無力になる
暗闇に向かって船は無力になる
情熱と熱狂に後戻れぬ俺がいて
偽りと裏切りに沈んでいく俺がいる
<使用道具>
マラカス/チャフチャス/デフ/ダウル/マンドリン/ウト/サワリ付ギター
寒い国の老人の額に深く刻まれた皺に捧げる
2005年5月から9月にかけて録音・制作された。 (mp3, 3'13, 3.7MB)
1990年代初頭、友人の学生芝居の音楽として何曲かを書き下ろした。この曲は、それら一連の作業をサウンド・トラックとしてまとめようと思い立ったときに、46分のカセット一本にまとめるには曲が足らず、付け足し的なトラックとして、芝居とは関係なく、一晩で制作し収録したことを覚えている。ちなみにそのカセットは劇団員に配付されたほか、芝居上演期間中に即売され、せいぜい5本くらい売れたっけ。
今でもこの芝居の為に制作した曲は気に入っていて、MacのGaragebandというソフトを使って、自分の表現を形にしようと思い立ったとき、まずこの曲に向かってみたのはそんな思い出もあってのことかもしれぬ。
基本的にテーマを繰り返しているだけのフォークロリックな曲だが、民俗音楽の多くはテーマの繰り返しに終始しており、移動式音楽班としても、別段、ポップスなど志向しているわけでもないので、まぁ、これでいいではないかと、常に居直った状態にあります。
こんな歴史を通じて、頭の片隅にあったイメージは、真冬、すべてが枯れた故郷の景色の中を車で走ったとき、自分もいつかこの景色に同化してしまうのかなと感じた、やるせない感じである。季節は繰り返すが、人生は一度きりだ。
若い日、老人となった自分が並んで走っているように感じることがときどきあった。旅の途中で、孤独の只中で。同じように年老いた日、今度は、若かった自分が、やはり並んで走っているのだろうか。同じものを見て、同じように目に映るだろうか。俺も変わっていくのだろうか。答えは出ない。仕様がないことなんだよ。そんな気持ちなのです。
<言葉>
Gott, hilf uns aus dieser Not !
Sie werden uns verzeihen !
神よ、わたしたちをこの苦境から救ってください
わたしたちを許してください
<使用道具>
マラカス/グンガール/ドーラック/リコーダー/マンドリン/クラシック・ギター