トルコの通過儀礼と音楽

ダウル・ズルナを巡って


移動式音楽班


 時間は、放っておけば漫然と私達の意志とは無関係に流れていく。しかし、人間は時を切り取ったり、分ける技術を発明してきた。例えば一日を昼と夜とに分ける、午前と午後に分ける、などは端的な例で、それは太陽の運行を注意深く観察することで達成されるものでありながらも、時報、鐘の音、サイレンなどによっても強調され共有されることになる。こうした技術は自然に依拠している部分もあるが、明らかに人間の持つ文化の一側面であると言える。

 このような技術、方法はさらに一年に拡大され、やがて人間の人生にも同じように適用されていくだろう。人間は生まれ、成長し、成熟し、老い、死んでいく。これは一年の季節と象徴的に対応している。ただ、季節が死と再生を繰り返すのに対し、人の一生は一度きりであり、人生の季節は一度通過してしまえば二度とやってはこない。

 一日、一年、人の一生のいずれをとっても、その中の各段階を分ける分け目には、ある「印しづけ」をすることが多い。祭りや儀礼といったものが執り行われるのは、まさにこの分け目に際してである場合が非常に多いと言えよう。特に、人の一生を各段階に分ける「通過儀礼」を通じて人は社会的に新しい地位と人格を獲得していくが、なかでも子供から大人への仲間入りを果たす儀礼は、概して盛大で、時に試練が必要となる。

 日常の時間に対して、祭りや儀礼の行われている間は非日常の時間であり、そこでは既存の価値体系があいまいになり、あるいは転倒し、普段してはならないことが許されることもある。

 音や音楽活動は、単なる区切りにせよ、非日常性の喚起にせよ、印しづけの道具として広汎に使用されていることは疑う余地がない。文化人類学者のロドニー・ニーダムは、特に、パーカッションとパーカッシヴな仕掛けから得られる音が、シャーマンのトランス、通過儀礼など、前者の場合、この世とあの世との間の移行、後者の場合、社会的地位の移行に際して、おそらくあらゆる文化で象徴的に使用されるという点について、「パーカッションと移行との間には関係がある [1] 」と結論づけている。

 こうした音、音楽活動は完全に娯楽の為のものというわけではないし、社会的な活動の一環でもあるため、当該文化の裡では、その形式、すなわち演奏の仕方や、楽器、音具の組み合わせなどが定められている場合が見出される。この小論では、私が1990年と92年に、計半年ほど滞在したトルコ共和国をフィールドとして、こうした特定の音楽、演奏の形式と儀礼との関係を主眼に検討してみたいと考える。


ダウル・ズルナなしで祝い事はない。(トルコ諺)


 トルコ共和国は政教分離を果たしているものの、国民の99%がイスラーム教徒である。したがって、一日は日に5回の祈りを呼びかける「アザーン」(トルコ語ではエザーン)がモスク(イスラーム寺院)の尖塔につけられたスピーカーより朗々と流れ区切られる。

Allāhu akbar
アッラーは偉大なり
Ashhadu an lā ila'llāh
アッラーの他に神はなきことを誓う
Ashhadu anna Muhammadan rasūl Allāh
マホメットはアッラーの使徒なることを証す
Ḥayya 'ala'l-ṣalāt
祈りに来たれ
Ḥayya 'ala'l-falāḥ
救いに来たれ
Allāhu akbar
アッラーは偉大なり
Lā ilāha illa'llāh
アッラーの他に神はなし (アラビア語)

 キリスト教会の鐘の音がヨーロッパを感じさせるが如く、このアザーンの朗誦はイスラーム世界を強烈に意識させる。こぶしの効いた歌のようにも聞こえるこの朗誦は、音楽でも歌でもないものとして認識されている。我々がお経を音楽とは考えないという感覚に近いのだろうか。これは日の出、正午、午後、日没、夜(太陽の運行によって時間は微妙にずれる)の、イスラーム教徒に課された礼拝の合図であり、専門の朗誦師によって詠まれる。スピーカーで増幅されているために、モスクの近くの宿に滞在すると、朝、轟音で叩き起こされる。イスラーム世界への旅行を計画している人は、頭の片隅に留めておかなければならない。

 一年の暦は西暦のほかに太陰暦であるイスラーム暦(ヒジュラ暦)によって、特に宗教上の行事が管理され、断食(ラマザン)明けの3日間の祭り「ラマザン・バイラム」と、聖地メッカ巡礼の最終日と同日より4日間の「クルバン・バイラム」(犠牲祭)は、イスラーム暦にしたがいトルコでも盛大に祝われる [2]

 ラマザンの期間は日の出から日没まで一切のものを口にしてはならない。しかし、日没以後はそれが解除されるため大量の食事を摂取する。この期間からして既に祝祭的色彩が濃い。ラマザン期間の解除に続くラマザン・バイラムではモスクに特別礼拝に行くなどの行事があるが、祭りだからといって特別なことはない。トルコでは砂糖菓子を近隣、貧者に配る習慣から砂糖祭とも呼ばれる。

 クルバン・バイラム(犠牲祭)の初日には、羊や牛などを屠り犠牲として捧げる。犠牲獣の肉は親類同志で分けあったり、近隣、貧者に分け与えられる。この祭りの4日間は親戚同志の交流や、屠った肉を食うことに費やされる。同時期の聖地メッカは、巡礼者がしきたりに沿って巡礼を行い壮観だろうが、そこいらの町や村では、やはり祭りだからといって特別なことはない。要するに、祭りを行うものと見物するものという構図はここでは成り立たない。イスラーム教徒全員がこの祭りの主催者であり、参加者でもあり、かつ、公的な行事でもあり、行事の行われる場、空間は私的なものなのでもある。

 イスラームは元来、祭りの少ない宗教であると言われるが、民間では各地で固有の農事暦に沿ったり、それぞれの慣習に沿って様々な祭りが行われる。トルコ各地では、油まみれのレスラーがとっくみ合うレスリングの大会や、ラクダ同志のレスリング(闘ラクダ?)、騎馬戦、春を祝う祭りなど様々なものがあるようだ。

 トルコ人の一生は、彼らが生まれてから死ぬまでに経験する幾つかの儀礼によって区切られている。特に、女性のように外徴的な身体的変化に乏しい男性にとっては、一人前の男になるために経験しなければならない儀礼として「割礼」がある。これはほとんどが幼・少年時代に為されるが、その有無によって人生のステージは別のものとなる。イスラーム教徒の男子として、割礼を施すことは慣習的に半ば義務化されており、割礼の際には親類縁者が集まり盛大に挙行され祝われる。

 一方、女子は初潮を過ぎ、結婚可能な女性として見倣されるようになると、今まで往来で男子と遊んでいた日々は過ぎ去り、スカーフなど頭に巻き、男性とは隔離される傾向にある。特に農村で顕著である。もし、あなたがそんな彼女にちょっかいでも出したら、親父さんに多分、半殺しにされるだろう。傷つけられた名誉は一族全体におよび、血によってしか清算されない場合もある [3] 。こうした事情もあってかどうか、どうも女性の儀礼は地味なようだ。

 その中で、結婚式は男女共に人生で最も輝くひとときであり、結婚を契機に独立した一戸前と見倣され社会的地位は一段上昇する。結婚は共和国の定めた文書に署名することで法的には成り立つが、社会的にはそれでは済まず、双方の家同志で「花嫁代償 [4] 」の額を契約し、結婚式を経て初めて夫婦として認知される。結婚式は伝統的には数日間かけて催されるが、昨今、都市部では結婚サロンを借り切って一日で済ます例が多い。

 こうした結婚式と、前述の割礼式は、トルコの通過儀礼のなかで最も盛大に挙行されるものであり、特に「ドュユン」(祝いごと)と総称される。結婚には、かなりの額の資金が必要になるため、貧しきものはコーランの章句を暗誦しているものかモスクの僧を呼び、コーランの章句を唱えてもらい、身内同志の会食をもって結婚式と為す。こうした式はドュユンとは呼ばれず、ドュユンとはあくまでも盛大な祝宴を指すことが伺い知れる。そしてそのバロメーターは、鳴り物、すなわち音楽の有無によってくるのである。

 その鳴り物とは、筒型の紐締め両型大太鼓ダウルdavulと、我が国のチャルメラによく似たダブル・リードのショウム系管楽器ズルナzurnaで、両者のペアによる演奏形態は、そのまま「ダウル・ズルナ」と呼ばれ、本章章題の諺「ダウル・ズルナなしで祝い事はない」というように、祝いごとには不可欠のものとして導入されてくる。


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画像 ダウル・ズルナの演奏


 ダウルの枠はポプラやクルミなどの薄板を巻いて作られる。膜面は山羊、羊などの皮がそれにあてられ、両面を紐でジグザグに縛り合わせる。枠の高さは約30~70cm.、口径は約50~100cmで、トルコの太鼓のなかでは大型の太鼓である。演奏者はこの太鼓を腰に吊し、片手に太いバチ、もう片方の手に指揮棒に似たしなやかな細いバチを持ち、太いバチで上面を、細いバチで下面を叩く。太いバチからは低く、大きな、強い打撃音「ドュム」が、細いバチからは甲高く若干弱い音「テキ」が得られ、例えば「ドュム・テキ・テキ・テキ」といった風にリズムを刻む。

 一方、ズルナの胴体は、アプリコット、プラムなどの木から作られ、その長さは30~60cmまで様々で、開口部は朝顔状に開いている。指孔は表に七つ、裏に一つで、さらに朝顔の部分に、通常六つの小さい孔が穿たれている。この孔は演奏に際して使用されることはなく、何のための孔かは演奏者自身によっても諸見解があり、結局なぜ小孔が開いているか分からないという [5] 。「そうなんだからそうなんだ」ということのようだ。

 ズルナのリードは葦の茎をつぶしたダブル・リードを金属性の芯子に取りつけ本体に差し込む。このリードを口腔内にすっぽり含んで吹くが、芯子にはアルミや紙で作った円盤がつけられ、リードを飲み込んでしまうのを防いでいる。芯子が挿入される管の上部には、さらに分離可能な内管が取りつけられ、これを180°回転させると、表の一番上の指孔を塞ぐという巧妙な細工になっており、演奏の途中で調子を変えるのに役立つらしい。演奏者は「循環呼吸法 [6] 」を用い、音をとぎらせることなく吹き続ける。


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画像 ズルナ表裏、内管(手前左)、リード及び芯子(手前右)


 ダウル、ズルナとも非常に喧しい音を奏でる楽器であり、ダウルはリズムを、ズルナは旋律を担当する。西アジアの合奏の組み立ては、一般的にポリフォニーを志向せず、リズム楽器、旋律楽器、歌唱の組み合わせによってメロディを繰り返しながら展開していく。ダウル・ズルナは小編成ながら完結したユニットであると言えよう。

 実際に、この両者のペアによる合奏がトルコの祝いごとにどのように関与しているかについて、割礼式と、私が参会した比較的伝統的な結婚式を中心に見てみたい。


「オイナ オイナ」(踊れ 踊れ)


 1992年の夏の間滞在していたトルコ中西部ブルドゥルBurdur県の県都ブルドゥル市は一本のメイン・ストリートに沿って細長く開けている。子供が夏休み中の期間は割礼シーズンであり、また、季節が良いためか結婚シーズンでもある。特に週末にはこうした祝いごとの行列が何組もメイン・ストリートを行ったり来たりする。この通りに面した所にいれば、例えば宿でくすぶっていても、野外の茶店(チャイ・バフチェ)でトルコ紅茶をすすっていても、この行列の通過を見逃すことはないだろう。というのも、行列を為す自動車やオートバイの絶え間なく鳴らし続けるクラクションの騒音と、乾燥したアナトリアの空気に良く響くダウル・ズルナの喧しい演奏に確実に耳を奪われるからで、「何事」と通りに目をやれば、割礼式ならば、オリエンタルな割礼の衣装に身を包んだ子供を乗せたオープンカーなどを中核にした行列を、結婚式の場合は新郎新婦を乗せ、花、リボン、人形などで飾られた車を中核とした行列を目にすることになる。いずれの行列でも、演奏する楽師を荷台に乗せたトラックなどが先頭になる。

 一般的にはダウル・ズルナ各1づつがオーソドックスな編成のようだったが、ダウル1・ズルナ2、ダウル・ズルナ各2という編成もあった。他には旋律を吹くズルナの代わりにクラリネット、金属製クラリネット、トランペットの使用が見られ、ダウルの代わりに西洋式のネジ締め式の大太鼓を見た。リズムを担うダウルに加えて、スネアドラムとシンバル、ダルブカ(ワイングラス型片面太鼓、アラブのダラブッカ)などのリズム編成も見たが、こうした行列で総勢4人を超す編成は見ていない。いずれにせよ、必ず大太鼓と管楽器を含んだペアで演奏される。

 こうした楽師たちはたいていの村々にいるということだが、祝いごとがあり、楽師と演奏を必要とするものは、知り合いや、ブルドゥル市ではバザールの中の楽器屋などを通じて手配する。ダウル・ズルナの楽師はそれぞれ「ダウルジゥ」「ズルナジュ」と呼ばれ、彼らは式の前日ないし当日の朝、雇い主の家に行き、式の期間、式の進行に合わせ以下の局面で演奏する。

  1. 朝:数日間続く式の場合、毎朝。
  2. 招待客の到着の度:彼らは日中、屋外で待機し、来客を演奏で出迎える。
  3. 踊りの伴奏として:野外での舞踊に際して。主に夕刻から夜の間。
  4. パレードに際して:パレードは式のハイライトであり最終日の昼間行なわれる。

 3.については、今日、ダウル・ズルナあるいはそれに代わる吹打楽のほかに、トルコ民間の国民的楽器であるサズ(長棹の撥弦リュート)をアンプにつないで演奏し、それに合わせて踊ることもある。この場合、こうしたダウル・ズルナ以外の楽師も同時に雇われる。

 野外での舞踊は、式を盛り上げる上でも欠かせないもので、ブルドゥル県西部の、私が結婚式に参会した村では、新郎と同世代の若者や一族のものなど、男ばかりで輪になって、眺ねる、回る、ステップする、ゆれる、ものに憑かれたように、踊る。4拍子の曲では両手を拡げ、指を鳴らしながら幾分自由に踊るが、9拍子(2十2十2十3)の踊り「ゼイベック」ではステップの定型が決まっており、それに沿って踊る。良い踊り手には踊りの輪の回りのギャラリーから「おひねり」が出る(まぁ一回、邦貨換算で20~100円ぐらいだった)。ところがこのおひねり、踊り手が貰ってはならず、楽師に寄付される。かくして、楽師の演奏するかたわらの机の上は、インフレの激しいトルコのこと、紙幣の山となる。「踊れ、踊れ」と促され、おひねりを千円以上も集めた私の舞踊の、楽師の収入への貢献と活躍は特筆されなければならない。また、翌日の全身の筋肉痛による痙攣の連続と、指を鳴らしすぎて指の皮がむけたという悲壮な努力は、平和島の冷凍倉庫での肉体労働の翌日の状態を思い出させ、坂の多いトルコの村を歩くのに苦労したことも、付記しておこう。

 踊りの間、踊り手たちは曲が気に入らなければ楽師にけちをつけ変えさせるし、曲の途中でその踊りに飽きれば別の曲を要求する。楽師にとっては厳しい世界であると思えた。

 こうしてドュユンの夜は更けていく。割礼式の場合、子供が実際に割礼を受けるのはこの翌日になる。結婚式の場合、新婦が新郎の家に人家するのも式の最終日で、かつてはそれまで新郎新婦が互いの顔を一度も見たことのないこともあったという。この夜、割礼の子供と、新婦は、「クナ」というヘンナから採られる染料で手などを朱色に彩色する儀礼がある。これはアラブ圈やインドなどでも見られるもので、彩色が十日間ぐらいは落ちないことは、無関係なのにも関わらず塗ってもらった私が良く知っている。これも地位の変化を象徴するトルコのやりかたの一つなのだろう。

 最終日はいよいよパレードとなる。割礼の子供は礼拝のためにモスクヘ行き、そしてパレードする。都市部での割礼はほとんど病院でやるそうで、「割礼クリニック」なるものがあり、レーザーメスまで完備されているという様は、医学的には、わが国の悩める青年の仮性包茎手術と大差ない。宗教的には全く、違う。割礼後の子供が踊ったりして良い訳はなく、子供は痛みの引くまで休む。

 結婚式では、新郎側は新婦の家なり村なりに新婦を連れに行き、パレードしながら帰ってくる。この間、ダウル・ズルナは演奏をし、新婦の家に到着の際と、新郎の家への帰還後、新郎側と新婦の親族による踊りなどもあり、こうした踊りは、前夜までの娯楽の本能に基ずくような踊りとは若干異なり、両家の来たるべき同盟関係を象徴するパフォーマンスであると言えよう。

 以上が祝いごとでのダウル・ズルナの役割であるが、トルコ民俗の中で、ダウル・ズルナが演奏する他の例ということになると、前述したラマザンの期間、日の出と日没の合図として演奏されるという [7] ほか、やはり前述したレスリングや動物競技の随伴として演奏される [8]

 歴史資料を当たると、共和国建国の父、ケマル・アタトュルクが首都アンカラに凱旋した際、歓迎する群衆によって「鼓笛隊」の演奏が為されたという [9] ほか、オスマン時代のイスタンブールのギルド組織では、徒弟が正式な組合員に昇格するときに儀礼があり、「笛と太鼓」の鳴り物でパレードしたという [10] 。両者とも、はっきりとダウル・ズルナとは記述されていないのだが、他の楽器であるとも考え難い。遊牧民の間では、かつて葬式に際してダウルがゆっくりとしたテンポで鳴らされたという [11]

 私が他に目撃したもののうち(民俗芸能フェスティバルのようなものを除外して)、特定の目的を特ったものとしては、いずれもサッカーがらみで、地元チームの選手を乗せたバスの帰還を歓迎する有志によって演奏されたほか、リーグ戦の好カードのテレビ中継後、勝利に狂喜したファンによっての演奏がある。

 ここまで見て来たダウル・ズルナの使用例から、まず、それが野外での行為を中心とした、なるべく周囲に知らされるべきイベントに際してであるという特徴を指摘できる。ダウル・ズルナの演奏は重ね重ね述べる通り、非常に喧しく騒々しいもので「遠隔伝達性」にすぐれた楽器であると言える。合図、信号としての役割は充分果たし得る楽器である。

 次に、それが感情興奮的な状況に際して使用されるという点で、舞踊行為とも関わっている。こうした場面での使用には、興奮状態を現出させるために使用され、音と演奏によって感情をかきたてる、という解釈が可能であろう。どちらにしろ、ダウル・ズルナが演奏されるのは非日常的な場面、空間においてであり、トルコでは、ダウル・ズルナの音は儀礼における他の様々の象徴的行為同様、日常を切り取る性質を帯びたものなのである。


ズルナではペシュレウは吹けない。(トルコ諺)


 現在のトルコの大部分を占める小アジア半島(アナトリア)は、歴史的に様々な民族が跳梁してきた土地である。人類史上、農耕がもっとも早く行われた地域の一つであり、古代ではコーカサス方面より侵入してきた印欧起源の民であるヒッタイトが、鉄の発明と楔形文字の使用によって特筆される。その崩壊後は、エーゲ海岸を中心にギリシャ・ローマの植民都市が繁栄する。西暦紀元後はキリスト教が最も早く布教された地でもあり、コンスタンティノープルを首都とした東ローマ帝国の時代は東方キリスト教世界の中心地でもあった。

 トルコ人がイスラームの旗の下、アナトリアに侵入してくるのは実に11世紀まで下る [12] 。彼らは中央アジアの遊牧系チュルク族の一分派であり、9世紀頃イスラーム化すると、その後、西南下を開始したらしい。トルコ人たちはアナトリアにルーム・セルジューク朝(ローマの地のセルジューク朝の意)を11世紀に樹立、モンゴル勢力の侵攻で崩壊した後には、オスマン朝が勢力を伸ばし、15世紀には東ローマ帝国を滅亡させる。

 その後、幾度かの歴史の波は被りつつも「トルコ人国家」として今日まで存続しているが、こうした歴史・地理性の所産として、トルコは現在も実質的に多民族国家である。

 トルコ文化の相貌の裡にも、中央アジア起源であるトルコ人本来の文化の伝統のほかに、トルコ人が移動の過程で接触した文化、アナトリアの基層文化、周辺の様々な文化の影響が紛れもなく見て取れる。その伝統的な音楽文化に反映される要素とて決して例外ではない。

 概して、研究者によって言及される点は、セルジュークからオスマン・トルコ宮廷で発展し体系化されたトルコ古典的芸術音楽と、民衆の伝承してきた民俗音楽との間の、ある種の断層である。

 例えば前者に属す古典的芸術歌曲は「シャルク」、後者に属す民謡一般を「トュルク」と呼ぶ、トルコ人が歌を二種類に類別するカテゴリー認識はその証左であるとされる [13] 。これは古典芸術音楽のスタイルが、既に確立していたアラブ・ペルシャの芸術音楽からの影響を直接に受けて形成されたという点と、民俗音楽がアナトリアの諸先住民族およびトルコ人の口頭伝承を背景にするという点に起因し、結局、前者は後者が発展、昇華したものでなく、その不連続性は、トルコ文化の、周辺の様々な民族の文化の影響を受け錯綜しながらも統一している、という特徴に帰結する。

 古典音楽と民俗音楽との断層は、使用される楽器がほとんど異なるという点にも如実に現れている。古典音楽では、さらに体鳴楽器、膜鳴楽器、リード付きの気鳴楽器などがほとんど排除されており、それが指向する音秩序、すなわち、室内で演奏され、アンサンブルの調和を重視し、騒々しい楽器を好まないという性格の状況証拠として挙げられるだろう。

 古典音楽、民俗音楽のほかに、オスマン・トルコ軍の、主に行進に際して演奏された「軍楽」(メフテルハーネ)がある。こちらは宮廷によって組織されたものであるとはいえ、その音楽や使用楽器は、むしろ民俗音楽に近い。ダウルとズルナを中心に、最大で九管編成で演奏されるその音は、要するに結婚式で演奏される一組のダウル・ズルナを九倍したところに、ラッパやシンバル、さらに大小の太鼓を加えたもので、当時としては途方もない音量を誇ったに違いなく、16~17世紀の、オスマン・トルコとヨーロッパ諸国の戦いでは、おそらくは人工的に作り出された音としては教会の鐘より大きな音は聞いたことのなかったであろうヨーロッパの人々に、雷が落ちたかの如き衝撃を与えたことだろう。その証拠に、ヨーロッパ諸国はその後相次いで軍楽隊を発足させ、トルコから多くの楽器を輸入している。

 民俗音楽は様式上の特徴として、無拍節で追分調のウズン・ハワ(長い歌)と、有拍で踊ることができるクルク・ハワ(細切れの歌)とに二分される。ウズン・ハワはこぶし回しの極意へと行き着く傾向が垣間見られるのに比し、クルク・ハワはもっと軽快な印象を受ける。ダウル・ズルナの演奏は、そのほとんどが舞踊と結びつくクルク・ハワであり、拍子は多彩である。また音量の不釣り合いもあってか、ダウル・ズルナの演奏を伴奏に民謡が歌われるということは非常に少ないようだ。

 民俗音楽は、それがコミュニティーに伝承され、個人の趣味の範囲で演奏される場合、そこには演奏者の専門性は成立しないはずである。多くの楽器は演奏者の趣味と裁量の範囲内で自由に選択され、全くの娯楽のために演奏される。それに対して、この小論で問題としているダウルとズルナは、こうした民俗音楽の楽器について言える性格とは異なる。

 ダウル・ズルナの演奏家は、その楽器の専門家で、ダウル・ズルナが演奏されるのは、民俗慣行のなかでは特別な状況に際してであり、雇い主の依頼を受け報酬を目的として演奏される。更に、一般に彼らの技術は世襲で、父から子へと継承される傾向が強く、結局、ダウルとズルナは私的な趣味の一環として選択される楽器ではありえず、むしろ、公的な場で演奏され、その機能を特定の演奏家に一手に担わされているものなのである。そのためかどうか、トルコ語ではダウル・ズルナに関する慣用句や諺は、他の楽器に比べて多いようで [14] 、この節の冒頭の諺は古典音楽の序曲(ペシュレウ)をズルナでは演奏できないと、その演奏の可能性について言及している。上述した通り、古典音楽から排除されている民俗音楽の楽器であるが、その中でもダウル・ズルナは明らかに一種独特の楽器と言えよう。


ダウル・ズルナに学校はない。もしあるとすればそれはドュユンだ。
(あるズルナ吹きの言葉)


 ダウル・ズルナの演奏者の、社会的な地位や性格は非常に興味深いものがある。ブルドゥル市の楽器量で、店主や立ち寄った演奏家たちとの茶飲み話では随分いろいろなことを教えてもらったものだ。

「ブルドゥルの近郊にダウル・ズルナの楽師はどのくらいいる?」
「ドュユンで演奏するものは150人くらいいる」
「彼らを雇うのにいくらぐらいかかる?」
「ダウル・ズルナ2人なら、3日で1人、1万円弱」
「月に何回くらい演奏するの?」
「5回やるときも1回もないときも、月によって違うし、人によっても違う」
「演奏だけで食ってるの?」
「それは難しい。俺は普段、病院の技師だ」(何で平日の昼間ここで茶を飲んでいるのだ?)
「ダウル・ズルナは誰から教わるの?」
「誰にも。教師などいない。自分で覚えるのだ」「そうだ。自分でだ」(本当かね?)
「じゃ、例えばサズは?」
「同じだ。自分で覚える。が、まてよ。教師がいないこともない」(お、誰だ?)
「それは俺だ。お前なら友達だから特別に教えてやってもいいぞ」

 こうした会話ですべて分かるならば苦労しない。実際、私が参会した、ある結婚式では、ダウル・ズルナ各2の4人編成の楽師のうち、ダウル担当の1人は3日間で2万円弱稼いだと言い、相場をはるかに上回っている。楽師には、その技量に応じたランクがあり、どの程度の楽師を、どのくらいの編成で呼べるかによって、式の良し悪しまで違ってくるという。けちけちしてはいけない。結局、あらゆる点で、金をかけた式ほど良い式ということになる。一般に、4人編成の場合、旋律を担当するズルナ吹きがリーダーとなり、報酬の総額の5分の2を、旋律をユニゾンで吹いたり、ドローンを吹いたりする副ズルナと、ダウル担当は総額の5分の1づつを受け取るということだ [15]

 技術の習得に関しては、「自分で」という答えが多く、なかなか要領を得なかった。しかし、観察してみると、親子ともに楽師である場合が圧倒的であり、身近に楽師がいることは技術の習得に不可欠の条件であると思われる。楽師の子供は父親についてドュユンに出かけていき、そこで経験を積んで、やがて一人前の演奏家になる。と、まとめられるか。ちなみに楽師は男だけである。

 一方、地方によってはダウル・ズルナの楽師は非トルコ人に担われるという。ヨーロッパ側トラキア地方ではジプシー(ロマ、トルコ語ではチンゲネ)が、地中海東岸からトルコ東南部の内陸にかけてのトロス山脈沿いではアブダルという漂泊の部族集団が、その仕事を半ば独占しているといい [16] 、また、ブルドゥル県南部には、オスマン時代にメッカ巡礼をした人々がアラビア方面から買ってきた奴隷アラップの子孫で、成人男子がすべて楽師になる村があるという [17]

 ジプシーがトルコ国内にどの程度居住しているか正確には分からないものの、相当数居住しているようである。彼らはよその国のジプシー同様、あちこち行ったり来たりして暮らしているらしい。その主な職業は、楽師、鋳掛け屋、行商人、入れ歯作り、占い師、花売り、熊使いの大道芸人(イスタンブールで見られる)などで、言ってはなんだが、なかなか嫌われ者のようである。「ジプシーが演奏し、クルドが踊る」とは、まさに「めちゃめちゃ」という意味の諺で、どう考えても差別的だが、人も自分たちの仲間とよそ者とを区別して生きる動物である。ジプシーの職業や生き方は、コミュニティーの外部からやって来る「よそ者性」で充ちている。そこに文学的、ロマン主義的な憧憬も生じるのであるから、多様な生き方があって社会があると、あえて言いたい。

 アブダルもしばしばジプシーと混同されるように、その生活スタイルはジプシーに近いものがあるようだ。トルコの研究者によれば、ジプシーとの最大の違いは彼らがイスラーム教徒であり、言語的にもトルコ語の方言を喋り、自らの出自の起源をトルコ人だと考えていることだという。

 ダウル・ズルナの楽師は、一般にその社会的地位は低く、時には賎民であるとすら言われる。ジプシーやアブダルなど、彼らは別にダウル・ズルナの楽師でなくとも、その社会的地位は決して高いとは言えないであろうが、そうした人々がダウル・ズルナの演奏を担ってきたという点は注目に値する。

 イスラーム教正統派では、音楽は「好ましからざるもの」とされてきた経緯もあり、報酬を目的とする演奏家が差別される地域は広く見られる。しかし、イスラームの伝統に答えを求めなくとも、音楽家の地位が低いという例は世界中で見出されるものでもある。となると、どうやらこの「報酬」を目的とする「専門性」と、特殊な技能を持ったものであるがゆえの「異人性」が問題になりそうだ。

 報酬を目的とする専門の職業音楽家と、クライアントとの関係は、結局、物乞いのそれに近く、ここでは力の流れは報酬を媒介に、雇う側から雇われる側へ一方的である。それでも、プロの楽師の奏でる高度な技術を持った、常人に真似のできない音楽は絶対的に必要なものであり、楽師はその技術を世襲というシステムで継承することで再生産される。これは、楽師を雇う側にとっての要請でもある。奴隷や特殊カーストにこうした職能を一手に引き受けさせるには、こうした合理的な理由があるはずであり、そのシステムは必ず、発明者は不明であるが、人間が発明したものにほかならないはずである。

 トルコでは、象徴的には、ダウル・ズルナの楽師は儀礼の「参加者」ではなく、踊りの輪の外部で演奏し、彼らが踊りに加わることは演奏している以上、不可能なことであり、こうした外部性も問題になるかもしれない。また、ダウル・ズルナが、大音量を奏で得る楽器であるという点は、演奏者の特殊な能力を際立たせ、その異人性を強化しているかもしれない。大きな音は、時として力や権力の証しであり、また、エネルギーを沸き立たせ、異界とのコミュニケーションの手段でもあるのだから。


ダウル・ズルナはアジア中にある。(ブルドゥル市の楽器商の言葉)


ダウル・ズルナ研究のもう一つの興味深さは、それが非常に広域に分布するという文化史的な側面にもある。

 ダウルの名称は、アラビア語で太鼓を指すタブルtablからというのが通説で、似たような名称の筒型の両面太鼓を周辺に探すと、daoúli(ギリシャ)、daule(アルバニア)、dohol(イラン、アゼルバイジャン)、dool(アルメニア)などのほか、さらにイランのドホル系の名称はdhol(アフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュ)、dholak(インド、パキスタン)など南アジアに及ぶ。

 一方、ズルナはペルシャ語のスルナーsurnāまたは、スルナーイsurnāyから来ているというのが通説である。ただ、それが何を意味するかについては諸説あるようだ。nāyが葦の笛または葦で出来たリードを指すことで見解は一致しているようだが、surについては「角笛」説、「祭り」説など、意見の一致を見ないらしい。

 この系統の笛はイスラーム圏の広がりと照応し、更にそれを越えて、ユーラシア、アフリカの広域に伝播し、しかも、どれも似たような名前で呼ばれ分布している。余程、強力な伝播力を持った楽器であったと言うほかない。

 さらに興味深い点は、ダウル系の太鼓とズルナ系の笛が、やはりペアで演奏されるという傾向と、その担い手がトルコと同じように低階層の職業音楽家であるという傾向である。イラン、アフガニスタン、パキスタン、ネパールなどにおいて楽師の性格はトルコのそれと類似する [18]

 民俗楽器に過ぎないダウルとズルナではあるが、これだけの伝播の原動力となった歴史・地理的背景としては、それが西アジア地域で発生したことが大きいと思われる。近世以前、そこはユーラシア大陸の文化、交易の中心地であったわけで、その中には今日私たちが親しんでいる楽器の原型がいくつも見られるのである。

 しかし、そうしたことと並んで、特に、その音のパワーを私は挙げたい。大きな音を出すゆえ、というのはごく単純な理由でしかないが、ダウル・ズルナの音には日常を非日常に変えるパワーがあるのだ、と、私は断言する。なるほどそうした考え方は充分に科学的ではないかもしれないが、人の感情を揺すぶらないものがこれだけ伝播できるか、も問題になるだろう。こうしたロマン主義的解釈は人間の野性や感情を問題にする。

 特にズルナに関しては、近代以前にこれほど大きな音を出し、メロディーが奏でられ、携帯便利で製作、維持、演奏の比較的容易な楽器がどれだけあったろうか。大掛かりな装置を必要とするような楽器が特権的であるのに対し、ダウル・ズルナは簡素であるという点で民衆の側にある。音律など土地によって適当に胴体に孔を開け、好みのメロディーを吹けばよろしい。民衆の世界にこれだけ浸透したのには、こうした点も見逃せないと思うのだ。

 結局、どこに伝播しようと、その文化が保有する、最大音量を奏でる楽器の一つとして収まってしまうダウル・ズルナはやはり特殊な楽器だ。その音は粗野で荒々しく、他の弦楽器や歌唱との合奏にはなじまないかもしれない。ズルナはダウルを必要とし、ダウルはズルナで十分だとするかのようなユニットである。もしも、ズルナを、もっとマイルドな合奏向きの音色に改造したとしたら、それはダウル・ズルナを要求する文化の要請に応えられるだろうか。

 否、だろう。


アナトリアの空の下、ダウル・ズルナは流れる。(ある旅行者の呟き)


 結局、私の興味と関心は本論の冒頭での議論に戻る。

 音楽は、それが成立する背景を抜きにしてどれほど有効なものであるか。ことに、儀礼という状況下では、どういった行動を取るべきかが慣習的に定められ、人はそれに従わなければならない。さもなければ儀礼が目的とする社会的人格の更新という作業は成立しえないこととなる。ダウルとズルナはトルコの祝い事に際して必要不可欠な音楽を奏でる楽器であり、なぜそうなのかを私はいくらかでも述べてきたつもりだ。どういった音楽を演奏するかよりも、その音が社会的に果たす役割に注視した。したがって、この小論からはダウル・ズルナの音楽に関しては「音が大きい」というほかは、イメージが湧かない事だろう。しかし、それは大した問題ではない気がする。トルコには様々な素敵な音楽がある。それを紹介することもこの小論の目的ではない。その音楽形式のなかで、ほかならぬダウル・ズルナの音そのものが通過儀礼の音であるということ、人の人生を区切る儀礼に際して鳴らされ、その人の人生に刻まれる音であるということが問題なのである。

 私たちは、その人生にどんな音を背負っているのだろう。

 私にとってはトルコの旅も一種の通過儀礼であったという気がする。ダウル・ズルナの音は、かくして異邦人の身の上にも刻まれたのであった。

注釈


[1] ロドニー・ニーダム「パーカッションと移行」長島佳子訳『ユリイカ』臨時増刊号、第22巻5号、青土社 1990. p.122.

[2] 旧約聖書で、アブラハムが息子イサクを信仰心の篤さから生け贄として捧げようとしたところ、神が代わりに牡羊を捧げよと告げたという故事にちなむもので、イスラーム教では彼らをそれぞれ、イブラーヒーム、イスハークと呼び預言者の系譜に加える。

[3] トルコ人のこうした風俗は、松原正毅『遊牧の世界』上下、中公新書 1983. 同『トルコの人々』NHKブックス 1988.同『遊牧民の肖像』角川書店 1990.など参照。

[4] 「花嫁代償」bridewealth 人類学用語で新郎側から新婦側へ支払われる財を指す。今日、トルコではもっぱら金銭であるというが、かつては家畜でも支払われたという。

[5] Pikken, Laurence, Folk Music Instrument of Turkey, Oxford University Press, London, 1975. p.494.

[6] 循環呼吸法の方法:息を吐く/肺の中の息が途切れてきたら膨らませた口腔内の息を押し出す/その際に鼻から空気を吸い込む/吸い込んだ空気を口腔へ送る。以下繰り返し。水を張ったボウルにストローで息を吹き込み訓練するという。

[7] Pikken, op, cit; p.96.

[8] Ibid, p.97.

[9] 三橋冨治男『トルコの歴史』近藤出版社 1990.p.190.

[10] アンドレ・クロー『スレイマン大帝とその時代』濱田正美訳 法政大学出版局 1992. p.294.

[11] Pikken, op, cit; p.98.

[12] トルコ人のアナトリア侵入の第一波はこの時で、第二波はモンゴルの台頭で中央アジアが荒廃した13世紀であるが、その流入人口はアナトリアに居住していたものの10分の1程度だったと推定されるという。護雅夫・岡田英弘編『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社 1990. p.186.

[13] 小柴はるみ「トルコ音楽」『日本の音楽・アジアの音楽』別巻Ⅱ 岩波書店 1989. pp.235-236.

[14] 竹内和夫『トルコ語大辞典』大学書林 1987. に記載された楽器名称23例を対象にした。民衆の生活と接点のなかった古典音楽の楽器に関する慣用句、諺は非常に少なかった点を付記しておく。

[15] Pikken, op. cit; p.497.

[16] Ibid, pp.98-99, 508.

[17] 松原、前掲『トルコのひとびと』 p.188.

[18] 柘植元一『世界音楽への招待』音楽之友社 1991. pp.65-68. 高橋昭弘「フンザの音楽職能者集団とその周辺 職能カーストとしての楽人」藤井知昭・馬場雄司編『職能としての音楽』東京書籍 1990.